米国の二国間保健戦略が揺るがすパンデミック予防の国際協調基盤
二国間保健協定が突きつける防疫秩序の分岐点
感染症は国境や同盟関係を選びません。新たな病原体を早く検出し、試料や遺伝情報を研究機関へ届けるには、平時から各国の監視網を接続しておく必要があります。
ところがトランプ政権は、WHOを中心とする多国間協力から距離を置き、援助相手国との二国間協定を世界保健戦略の柱に据えました。迅速な情報入手と援助の効率化を目指す一方、アフリカ側にはデータ主権や医薬品への公平なアクセスを巡る懸念があります。問われているのは援助額だけではなく、次の危機で各国が情報を出し合える防疫秩序を維持できるかです。
米国第一戦略が描く国家間支援への転換
36カ国協定と267億ドルの共同投資
米政府は2025年9月に「America First Global Health Strategy」を打ち出し、従来の援助事業を複数年の政府間協定へ組み替えました。KFFの2026年11月時点の集計では、アフリカ、アジア、中南米・カリブ海の36カ国が協定を締結しています。
公表された2026~2030年の共同投資は総額267億ドルです。内訳を確認できる範囲では米国の拠出が159億ドル、相手国の共同負担が103億ドルで、相手国側の負担割合は全体の39%となります。多くの協定は5年間ですが、ボツワナや南スーダンなど一部は3年間です。
最大の特徴は、米国が資金を出し続ける援助モデルから、相手国政府が段階的に費用と事業運営を引き取るモデルへの転換です。NGOや国際機関を経由した支援を減らし、保健省の制度、医療従事者、検査網、調達システムへ直接資金を結び付けます。
支援削減と自立促進が同居する設計思想
国内財源を増やし、援助への恒常的な依存を減らす方向自体は、アフリカ側が長く掲げてきた「保健主権」と矛盾しません。Africa CDCも、各国への直接支援と国内共同負担を組み合わせる持続可能な関係を米国へ提唱しています。
問題は移行の速度です。KFFは、協定に基づく米国資金が比較対象となる従来水準から81億ドル、率にして34%減ると分析しています。Center for Global Developmentも、紛争国や行政能力の弱い国が短期間で人員、医薬品調達、検査設備を引き継ぐ難しさを指摘しました。
Think Global Healthが全文を分析できた協定では、国内負担を増やしても米国分を補えず、2030年の年間保健支出が縮小する国があります。ブルンジ、エスワティニ、レソト、リベリア、マダガスカル、モザンビーク、シエラレオネ、南スーダンの8カ国では、協定対象支出が合計で14%減る見通しです。自立を促す制度が、移行期には監視網や診療所を弱める可能性があります。
5日以内の試料提供が示す米国の優先順位
二国間協定の中でも論争を招いているのが、感染症データと病原体試料の提供条項です。AP通信が確認した協定では、少なくともアフリカ9カ国が米国の要請から5日以内に試料や関連データを送る仕組みに合意しました。
米国は受け取った情報や試料を、診断薬や治療法の開発に携わる最大10の米国非政府機関へ提供できます。新たな感染症を発生地で把握し、米国内へ到達する前にワクチンや検査手段を準備するという安全保障上の論理です。病原体共有の遅れが初動を妨げる以上、迅速な提供期限を設ける発想には合理性があります。
しかし、一部の協定には、試料提供国が成果物を優先的に受け取れる強い保証がありません。医薬品の提供は資金の有無や米国内需要に左右され、相手国が購入費を負担する場合もあります。情報へのアクセスは確保する一方、そこから生まれる利益を対等に配分する仕組みが弱い点に、制度上の非対称性があります。
病原体共有の非対称性が生む国際防疫網の亀裂
PABSが結ぶアクセスと利益配分
WHO加盟国は2025年5月、世界初のパンデミック協定を採択しました。委員会段階の投票は賛成124、反対ゼロ、棄権11でした。ただし、病原体アクセス・利益配分制度であるPABS付属書が完成するまで、各国による署名と批准の手続きには進めません。
PABSは、パンデミックを起こす可能性のある病原体の試料と遺伝配列を迅速に共有する代わりに、それを利用して開発されたワクチン、治療薬、診断薬を公平に配分する構想です。参加メーカーには、パンデミック時のリアルタイム生産量の20%をWHOへ迅速に提供する目標が示されています。
二国間協定との違いは、情報提供と利益配分を一つの取引として扱う点です。病原体が見つかった国に迅速な共有を求めるなら、その国が成果物から取り残されないという信頼が必要です。試料だけが先進国へ渡り、完成した医薬品は価格や供給順位の壁で戻ってこない構造では、次の発生国が早期報告をためらう誘因が生まれます。
二国間契約が生む制度の重複と空白
米国はWHO離脱を指示した2025年1月の大統領令で、パンデミック協定と国際保健規則改正の交渉停止も命じました。その後、米国はWHOのPABSではなく、個別協定を通じて病原体へアクセスする道を構築しています。
二国間協定はPABSやAfrica CDCへの共有を明示的に禁じているわけではありません。それでも、異なる提出期限、データ形式、秘密保持条件、利用許諾が併存すれば、限られた人員と検査能力が米国向けの報告へ優先配分される可能性があります。
途上国の政策研究機関South Centreは、米国への優先的な試料提供がWHOや地域機関への共有を遅らせ、アフリカ諸国がPABS交渉で求める利益配分の交渉力を弱めると警告しています。米国が協定に参加しないまま試料へアクセスできれば、多国間制度へ参加して利益配分を負担する国との間に不均衡も生じます。
安全保障の観点では、米国を中心に相手国が放射状につながる「ハブ・アンド・スポーク型」の監視網といえます。米国への情報集約には強くても、隣接するアフリカ諸国同士の共有や、地域全体への医薬品配分を自動的には保障しません。発生地の封じ込めには、ハブだけでなく各国を横につなぐ回線が不可欠です。
ガーナとザンビアが示す交渉余地
各国の対応は一様ではありません。ガーナは、必要な安全措置なしに機微な保健データへ米国側がアクセスできるとして、約3億ドル規模の提案を拒否しました。このうち米国の拠出予定額は5年間で約1億900万ドルでした。
ガーナのデータ保護当局は、対象が患者情報だけでなく、メタデータ、ダッシュボード、データモデルなど保健情報基盤全体に及ぶ点を問題視しました。最大10の米国組織が、ガーナ側の事前承認なしにデータを利用できる可能性も拒否の理由となりました。
一方、ザンビアは交渉を続け、患者データと病原体試料の共有条項を削除した上で、米国分15億ドルを含む総額36億ドルの協定に合意しました。この事例は、提示された条項が不可変更ではなく、受け入れ国の法制度や政治的意思によって修正できることを示します。
ただし、援助停止によって診療所や医薬品供給が既に圧迫された国と米国との交渉力は対等ではありません。短期的な医療継続のために長期的なデータ権限を譲る構造は、形式上の合意だけでは正当化できない課題です。
地域機関を軸にした集団防衛の必要性
感染症対応は、軍事同盟と同様に「最も弱い接点」が全体の安全性を左右します。監視能力が不足する一国で検出が遅れれば、資金の潤沢な国だけが強固な体制を築いても、地域全体への拡散を防げません。
2026年5月にはアフリカの48カ国の保健相が、域外パートナーとの保健安全保障交渉をAfrica CDCを通じて調整する方向で一致しました。同年8月にはアフリカ10カ国が、早期警戒、情報共有、国境地帯での共同対応を定める覚書に署名しています。
この地域協力は、エボラ、マールブルグ病、コレラ、エムポックスが国境を越えてきた経験に基づきます。WHOアフリカ地域事務局などは世界的なエムポックスワクチン備蓄も整備しました。試料の共有と同時に、発生地へ人員、診断薬、ワクチンを戻す回路を持つことが、危機を封じ込める集団防衛になります。
資金移行期に高まる三つの実装リスク
第一のリスクは監視網の空白です。米国資金の縮小より国内予算の増額が遅れれば、地域検査室、疫学調査員、試料輸送など、危機が起きる前には成果の見えにくい部門から削られかねません。感染後の治療を維持できても、早期警戒能力が低下すればパンデミック予防には逆行します。
第二は制度の断片化です。各国が異なる二国間契約を結ぶと、同じ病原体に複数の報告経路や利用条件が設定されます。米国、WHO、Africa CDC、近隣国のどこへ何を優先して送るかが曖昧なら、初動時の法務確認が科学的な共有を遅らせます。
第三は信頼の毀損です。Africa CDCは、発生国を対象とする広範な渡航制限が情報公開をためらわせ、非公式な移動を増やす可能性を指摘しています。試料提供後の利益が保証されない契約も、同じように早期報告への動機を弱めます。
望ましい着地点は、二国間協定の全面否定ではありません。相手国への直接投資を維持しつつ、データ形式、同意手続き、地域機関への同時共有、医薬品の還元条件をPABSと互換化することです。独立監査と協定本文の公開も、実装の信頼性を測る最低条件になります。
日本が支えるべき接続型の保健安全保障
今後の焦点は、2027年5月を目標とするPABS付属書の妥結、米国協定の実施計画、病原体から生まれた医薬品の配分実績です。協定数や拠出総額だけでなく、検出から地域共有、研究、発生国への還元までが一つの回路として機能するかを確認する必要があります。
日本には、WHOやAfrica CDCの広域監視を支えながら、各国の検査能力と国内生産を強化する役割があります。二国間援助も地域・多国間制度へ接続し、試料提供国の事前承認と利益配分を明文化すべきです。次のパンデミックを防ぐ資産は、病原体データだけではなく、危機の前から積み上げる国家間の信頼です。
参考資料:
- KFF Tracker: America First MOU Bilateral Global Health Agreements
- U.S. Bilateral Health Agreements: Texts and Related Information
- Where the Trump Administration’s Global Health Agreements Stand
- Tracking the “America First” Bilateral Health Agreements
- Effective Implementation of the America First Global Health Strategy
- African countries “under pressure” signed Trump’s America First health deal—and few rejected it
- Zambia will sign $3.6 billion health plan with US that won’t require sharing of patient data
- Ghana becomes the latest African country to reject a US health deal
- Member States advance negotiations on pathogen access and benefit-sharing
- World Health Assembly adopts historic Pandemic Agreement
- WHO statement on notification of withdrawal of the United States
- Statement on US Travel Restrictions Related to the Bundibugyo Ebola Outbreak
- Ten Africa countries sign agreement to strengthen cross-border cooperation
- Withdrawing the United States From the World Health Organization
- The US Bilateral Specimen Sharing Agreement Would Leave African Countries More Vulnerable
国際安全保障・欧州情勢
欧州・中東の安全保障問題を中心に、軍事と外交の接点から国際秩序の変動を伝える。
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