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RCP8.5退場で問われる気候リスク評価と政策判断の新たな常識

by 坂本 亮
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RCP8.5退場が示す気候科学の更新

気候変動の議論で長く「最悪ケース」として使われてきたRCP8.5、またその後継に近いSSP5-8.5の位置づけが変わっています。2026年4月に公表されたScenarioMIP-CMIP7の設計論文は、次世代の気候モデル比較で使う排出シナリオ群を示し、21世紀の高排出側の幅を従来より狭めました。

これは、温暖化の脅威が消えたという話ではありません。むしろ科学が現実の技術コスト、政策、排出実績を取り込み、リスク評価の物差しを更新しているという意味です。読者にとって重要なのは、「過去の警告は誇張だったのか」という単純な問いではなく、「どの時間軸で、どのリスクに、どのシナリオを使うべきか」という実務的な問いです。

最悪シナリオがビジネス常態化した経緯

RCPからSSPへの設計思想の変化

RCPは「Representative Concentration Pathway」の略で、2100年時点の放射強制力を目安にした濃度経路です。RCP8.5は、2100年に1平方メートルあたり8.5ワット程度の追加的な放射強制力に至る高排出経路として設計されました。温室効果ガスの濃度がどう推移した場合に、地球システムがどう反応するかを比較するための実験条件です。

ここで大切なのは、RCP8.5が「予報」ではなく「仮定の束」だった点です。人口、経済成長、エネルギー需要、石炭利用、技術進歩、気候政策の有無が組み合わさった未来像であり、確率を直接割り当てた天気予報のようなものではありません。Carbon Briefの整理でも、RCP8.5は高排出側の基準として作られたものの、必ずしも最も起こりやすい無政策の未来ではなかったことが説明されています。

それでもRCP8.5は、学術論文や報道、政策文書で「business as usual」、つまり今のまま進んだ場合の標準ケースのように扱われることがありました。背景には、IPCC第5次評価報告の時期に利用できる非緩和シナリオとしてRCP8.5が目立っていたこと、気候モデル研究とエネルギーモデル研究の間で前提の意味が十分に伝わらなかったことがあります。

その後、CMIP6ではSSPという社会経済経路が広く使われました。SSP5-8.5は、急速な経済成長と化石燃料依存が続く高排出ケースです。IPCC第6次評価報告の統合報告書では、SSP5-8.5の2081〜2100年の温暖化は中央値で4.4度、非常に幅の広い不確実性の中で3.3〜5.7度と評価されました。この数字は強い警告として機能しましたが、同時に「どこまで現実的か」という検証も強めました。

CMIP7で狭まった排出経路の上限

CMIP7向けのScenarioMIP論文は、SSP5-8.5相当の高排出水準について、再生可能エネルギーのコスト低下、気候政策の広がり、最近の排出トレンドを踏まえると、21世紀の高排出側としては現実性が下がったと判断しました。新しい高排出シナリオは、緩和政策の後退や国際協調の失敗、化石燃料への回帰を想定しますが、従来のSSP5-8.5より低い強制力に置かれます。

この変更は、科学者が突然意見を変えたというより、観測と社会変化を取り込む定期更新です。ScenarioMIPは、CMIP7のシナリオをIPCC第7次評価報告や2028年のグローバル・ストックテイクに役立てることを想定しています。CMIP6では将来シナリオの基準年が古くなり、モデル実験がそろうころには2015〜2020年の一部がすでに歴史データになっていました。CMIP7では2023年までの排出実績と2024〜2025年の直近傾向をより強く反映する設計です。

ただし、新しい高排出シナリオが消えたわけではありません。論文は、政策の巻き戻し、エネルギー集約的な生活様式、低排出技術の停滞、資源や安全保障をめぐる対立が重なれば、高リスクの経路はなおあり得ると説明しています。つまり「4度超の標準シナリオ」から「深い失敗を想定したストレスケース」へと、役割が明確化されたのです。

最新データが描く温暖化リスクの中間域

排出量ピーク接近と残る高止まり

RCP8.5の現実性が下がった最大の理由は、世界のエネルギー構造が2010年代の想定とは違う方向に動いたことです。IEAのWorld Energy Outlook 2025は、現行・表明済み政策を織り込むSTEPSで、エネルギー起源CO2排出が近い時期に38ギガトン強でピークを迎え、2030年代半ばに35ギガトン、2050年には30ギガトン未満へ下がると見ています。これは、排出が2100年まで増え続けるRCP8.5型の世界とは大きく異なります。

再生可能エネルギーの伸びも前提を変えました。IEAのRenewables 2025は、2025〜2030年に世界の再エネ電源容量が約4,600ギガワット増え、前の5年間の導入量の約2倍になると予測しています。太陽光は容量拡大の約8割を占め、再エネは2025年末から2026年半ばにかけて世界最大の発電源になる見通しです。これは、石炭利用が長期的に大拡大する高排出仮定を弱める要因です。

一方で、排出が急減しているわけでもありません。Global Carbon Budget 2025は、2025年の化石燃料由来CO2排出が前年比で約1.0%増え、38.1ギガトンに達したと推計しています。過去の最悪想定から外れつつあることと、現実の排出が依然として記録的水準にあることは同時に成立します。ここを取り違えると、科学的な更新が楽観論にも悲観論にも誤用されます。

一・五度超過がもたらす政策課題

UNEPのEmissions Gap Report 2025は、各国のNDCが完全に実施されても今世紀の温暖化は2.3〜2.5度、現行政策ベースでは2.8度に向かうと評価しています。パリ協定採択時に3〜3.5度と見られていた見通しより下がったことは、政策と技術の効果を示します。しかし2度を十分下回る水準には届かず、1.5度に戻すには2035年までに2019年比で大幅な排出削減が必要です。

観測データも警告を弱めていません。WMOは2025年の世界平均気温を1850〜1900年平均より約1.43度高い水準とし、2015〜2025年を観測史上最も暑い11年間と報告しました。Copernicusは2025年を観測史上3番目の高温年とし、2023〜2025年の3年平均が初めて1.5度を超えたと説明しています。Berkeley Earthも、2025年を産業革命前比で1.44度高い年と推計しました。

ここから見えるのは、気候リスクの中心が「5度に近い破局的な世界」だけでは語れなくなった一方、「2.5〜3度の世界」が十分に深刻な政策課題として前面に出てきたということです。2.5度前後でも熱波、豪雨、海面上昇、生態系損失、農業生産の不安定化は拡大します。平均気温の数字が1度下がっても、インフラや保険、食料安全保障にとっては大きな損害を伴う範囲です。

影響評価で残る高リスク想定の使い道

中期リスク評価と長期予測の分離

RCP8.5をめぐる論争で見落とされがちなのは、時間軸によって有用性が異なる点です。2020年のPNAS論文を紹介したWoods Hole Research Centerの説明は、RCP8.5が2050年までの累積排出や物理的リスク評価ではなお参考になると主張しました。これに対し、HausfatherとPetersはNatureで、最悪ケースを最もありそうな未来として使うことは政策判断を歪めると論じました。

この対立は、どちらか一方が完全に正しいというより、用途の違いを示しています。発電所、港湾、防潮堤、都市排水、長寿命の送電設備などは、数十年先の極端現象に耐える必要があります。保守的な設計では高リスク想定を使う合理性があります。一方、国家の温室効果ガス削減政策や企業の移行計画を評価する際に、RCP8.5を「通常の成り行き」と置くと、現実の技術変化や政策効果を見誤ります。

影響評価では、今後は「中心シナリオ」「政策失敗シナリオ」「低排出シナリオ」を分けて提示する透明性が重要になります。中心シナリオは現行政策や市場動向を反映し、政策失敗シナリオは緩和策の巻き戻しや国際協調の崩壊を検証し、低排出シナリオはパリ協定との整合性を測ります。単一の最悪ケースに議論を集約する時代は終わりつつあります。

政治化を避ける科学コミュニケーション

RCP8.5の退場は、気候懐疑論にも、過度な安心論にも利用されやすい材料です。「最悪シナリオが外れたから温暖化は誇張だった」という解釈は、排出シナリオと気候感度、観測された温暖化、影響評価を混同しています。ScenarioMIPが見直したのは、人間社会が今後どれだけ排出するかという入力側の範囲です。CO2が地球を温める物理や、すでに進んだ温暖化の事実を取り消したわけではありません。

逆に、これまで通りRCP8.5だけを警告の中心に置き続けることにも問題があります。実現可能性が下がったシナリオを標準ケースのように示せば、政策への信頼を損ねます。科学コミュニケーションでは、「最悪の見通しが少し和らいだこと」と「危険な温暖化がなお進行していること」を同時に伝える必要があります。

特に金融機関、保険会社、自治体、インフラ事業者は、気候ストレステストの前提を再点検すべき段階にあります。古いRCP8.5を機械的に使うのではなく、CMIP7の高排出シナリオ、IEAやUNEPの現行政策見通し、地域別の極端現象データを組み合わせる方が、意思決定に近い情報になります。

読者が見極めるべき気候情報の読み筋

RCP8.5の見直しは、気候科学の敗北ではなく、自己修正能力の表れです。再エネの普及と政策の積み上げによって、かつての最悪級シナリオは標準的な未来ではなくなりました。しかし、現行政策で2.5〜2.8度に向かう世界は、社会にとって十分に危険です。

今後の気候ニュースを読む際は、まず「その数字は排出シナリオなのか、温度予測なのか、影響評価なのか」を分けて見ることが重要です。次に、時間軸が2030年、2050年、2100年のどこに置かれているかを確認します。最後に、シナリオが最頻値なのか、政策失敗時のストレスケースなのかを見極めるべきです。

科学は、単純な安心材料も、固定された破局物語も提供しません。提供しているのは、更新され続けるリスク地図です。RCP8.5退場後の気候政策で問われるのは、その地図をどれだけ正確に読み、排出削減と適応投資を遅らせないかです。

参考資料:

坂本 亮

テクノロジー・サイエンス

宇宙開発・AI・バイオテクノロジーなど最先端の科学技術を、社会的インパクトの視点から読み解く。技術と倫理の交差点を追い続ける。

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