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Nomaシェフ辞任で問われる厨房の軍隊式組織

by 黒田 奈々
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はじめに

2026年3月、デンマーク・コペンハーゲンの世界的レストラン「Noma」の創業シェフであるレネ・レゼピ氏が、元従業員からの暴行疑惑を受けて辞任しました。ミシュラン三つ星を獲得し、「世界最高のレストラン」に何度も選ばれたNomaの衝撃的なニュースは、飲食業界全体に波紋を広げています。

この問題の根底には、19世紀にフランスの料理人オーギュスト・エスコフィエが考案した「ブリゲードシステム」と呼ばれる厨房の軍隊式組織体制があります。効率性を追求するこの仕組みが、なぜ職場暴力の温床となりうるのか。業界構造の問題を掘り下げます。

レネ・レゼピ辞任の経緯と疑惑の全容

35人の元従業員が証言

2026年3月初旬の報道によると、35人の元Noma従業員が2009年から2017年にかけてのレゼピ氏による暴行を証言しました。具体的には、従業員の顔を殴る、調理器具で突く、壁に叩きつけるといった行為が報告されています。さらに、業界から追放すると脅したり、家族の国外追放をほのめかしたりしたとの証言もあります。

レゼピ氏はInstagramで謝罪を発表しましたが、その内容については「オスカー賞に値するほどの演技」と批判する声もあります。20年以上にわたってNomaを率い、北欧料理を世界的なムーブメントに育てた功績がある一方で、その裏側で深刻な問題が常態化していたことが明らかになりました。

LAポップアップと抗議活動

レゼピ氏の辞任は、Nomaがロサンゼルスで1人1,500ドル(約22万円)のテイスティングメニューを提供するポップアップレストランをオープンした日と重なりました。会場の外では元従業員らによる抗議活動が行われ、「Nomaで働いたことが自分たちを壊した」と訴えました。

American Express、Resy、Blackbirdなどの主要スポンサーが次々と支援を撤回し、Nomaブランドは大きな打撃を受けています。ポップアップ自体は2026年6月まで継続予定ですが、レゼピ氏抜きでチームが運営を引き継ぐ形となっています。

ブリゲードシステムとは何か

エスコフィエが生んだ軍隊式厨房

ブリゲードシステム(Brigade de Cuisine)は、フランスの偉大な料理人オーギュスト・エスコフィエ(1846〜1935年)が考案した厨房の組織体制です。1870年代にフランス軍で炊事の経験を積んだエスコフィエは、軍隊の階級制度を厨房に応用しました。

この体制では、エグゼクティブシェフを頂点として、スーシェフ、各部門のシェフ・ド・パルティ、コミ(見習い)と厳格な階層構造が形成されます。各調理担当者が専門分野に特化することで、レストランは品質を維持しながら大量の料理を効率的に提供できるようになりました。

エスコフィエの狙いは、それまで6時間かかっていた食事の提供を1〜2時間に短縮し、働く中産階級も高級レストランで食事を楽しめるようにすることでした。このシステムは世界中の高級レストランに広まり、現代の飲食業界の基盤となっています。

効率性の裏に潜む構造的問題

ブリゲードシステムの特徴は、絶対的な指揮命令系統と無条件の服従です。「Yes, Chef!」という返答に象徴されるように、上位者の指示に疑問を挟む余地はほとんどありません。高温・高圧の厨房環境において、この厳格な上下関係は秩序を保つために機能する一方、権力の濫用が起きやすい構造でもあります。

軍隊式の組織では、上位者の行動を部下が是正する仕組みが欠けています。カリスマ的なヘッドシェフが頂点に立つ場合、その人物の行動を制御する内部メカニズムがないまま、暴力的な振る舞いが「厳しい指導」として正当化される危険性があります。

飲食業界に根深い暴力の文化

「厨房は戦場」という神話

高級レストランの厨房における暴力的な文化は、Nomaに限った問題ではありません。ロンドンのサヴォイホテルなどの名門厨房でも、「複数の言語で怒鳴り散らす厳格なシェフ」のもとで働いた経験が報告されています。フランス料理の伝統を継承する多くの厨房で、同様の問題が存在してきました。

この文化が根強い理由の一つは、暴力的な環境を耐え抜いたことが「一人前のシェフ」としての通過儀礼とみなされてきたことです。被害を受けた側が指導者の立場になると、同じ行動を再生産するという負の連鎖が生まれます。テレビ番組で怒鳴るシェフが人気を博すことも、こうした文化を正常化する一因となっています。

ボストンなど世界各地への波及

レゼピ氏の疑惑は、各地のレストラン業界にも波紋を広げています。ボストンのレストラン業界では、Nomaの問題を受けて自らの職場環境を見直す動きが報じられています。世界中の高級レストランで同様の構造が存在するため、Nomaの事例は業界全体の転換点となる可能性があります。

注意点・今後の展望

改革への動きと課題

ブリゲードシステム自体は、効率的な厨房運営のために有効な組織モデルです。問題はシステムそのものではなく、権力の監視機能が欠如した状態で運用されることにあります。今後の改革では、以下の点が重要になるでしょう。

まず、厨房内でのハラスメント通報制度の整備です。密室性の高い厨房では、外部への通報が困難な場合が多く、内部告発者を保護する仕組みが必要です。また、レストラン業界全体での労働基準の見直しも求められます。長時間労働や低賃金といった構造的な問題が、暴力を容認する文化を下支えしている側面があります。

Nomaの事例は、料理界のスター文化にも疑問を投げかけています。一人のカリスマシェフに権限が集中するモデルから、チーム全体で創造性を発揮する体制への移行が、業界の健全化には不可欠です。

まとめ

レネ・レゼピ氏の辞任とNomaの騒動は、世界の飲食業界が抱える構造的な問題を浮き彫りにしました。19世紀に生まれたブリゲードシステムは厨房運営の効率化に大きく貢献しましたが、厳格な階層構造が権力濫用の温床となりうることも明らかになっています。

美食の世界が持続的に発展するためには、組織の効率性と働く人々の尊厳の両立が求められます。消費者としても、華やかな料理の背後にある労働環境に目を向けることが、業界変革の後押しになるのではないでしょうか。

参考資料:

黒田 奈々

カルチャー・エンタメ

エンタメ・アート・スポーツを横断的にカバー。ポップカルチャーの潮流とビジネスの交差点から、文化の「いま」を切り取る。

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