原油90ドル突破、米イラン戦争が世界インフレを再燃させる構図
原油90ドル突破を招いた停戦崩壊
ブレント原油が再び1バレル90ドル台に乗せた背景には、単なる地政学リスクの上乗せではなく、6月中旬の停戦覚書でいったん低下した供給不安が、7月に入り再燃した構図があります。MarketWatchは7月20日、ブレントが一時91.42ドルまで上昇した後、10日間停戦案の報道を受けて86ドル台へ反落したと報じました。Business Insiderも、早朝取引でブレントが4%近く上昇し90ドルを突破した後、88.50ドル付近へ伸び悩んだと伝えています。
値動きだけを見れば、相場は上昇と反落を繰り返す「ヘッドライン相場」です。しかし中身はより深刻です。米国とイランの応酬は、核施設や軍事施設をめぐる限定的な衝突から、ホルムズ海峡の通航、湾岸諸国の安全、紅海ルートの安定を同時に揺らす段階へ移っています。原油市場は、停戦の可能性には敏感に反落しますが、物流と精製品供給の回復が遅れる限り、下値は以前より固くなります。
重要なのは、90ドルという水準そのものより、そこに至る経路です。4月にはブレント先物が118ドルまで上昇し、6月26日には72ドルまで低下しました。EIAは第2四半期の相場について、ホルムズ海峡の混乱で価格変動が大きくなり、4月と5月の日々の変動幅が前年同月を大きく上回ったと整理しています。市場はすでに一度、戦争プレミアムの膨張と剥落を経験しました。今回の90ドル突破は、その記憶を抱えた再上昇です。
株式市場の初動が比較的落ち着いて見えた点も、安心材料とは限りません。MarketWatchのライブ更新では、S&P500先物が0.3%高、ダウ先物が0.2%高、ナスダック100先物が0.5%高と伝えられました。つまり投資家は、原油高をまだ全面的なリスクオフとして織り込んでいません。だからこそ、海峡の通航量、米ガソリン価格、停戦交渉の三つが崩れた場合、後追いの価格調整が大きくなりやすい局面です。
ホルムズ海峡が映す供給不安の実像
世界最大級の海上チョークポイント
ホルムズ海峡は、イランとオマーンの間に位置し、ペルシャ湾とオマーン湾、さらにアラビア海を結ぶ狭い海上交通路です。EIAは2019年時点の分析で、同海峡を世界で最も重要な石油輸送のチョークポイントと位置付けました。2018年には日量2100万バレル、世界の石油液体燃料消費の約21%に相当する量が通過していました。世界の海上原油取引の約3分の1、LNG取引の4分の1超もこの海峡を通っていたとされています。
この数字は古い統計ですが、地理的な意味は変わっていません。湾岸産油国の多くは、油田と積み出し港がペルシャ湾側に集中しています。サウジアラビアやアラブ首長国連邦には迂回パイプラインがありますが、カタールのLNG、クウェートやイラク南部の輸出、イラン自身の輸出には、なお強い制約が残ります。海峡の幅が狭いことより、通航停止時の代替可能性が限られる点が市場を不安定にしています。
APは7月20日、米国がイラン港湾への海上封鎖を再び実施し、過去1週間で7隻を迂回させ、1隻を無力化したと伝えました。APの別報道では、米国が7月中旬に封鎖を再開した後、イラン革命防衛隊が中東全域のエネルギー輸出停止を示唆したとされています。軍事的には船舶の検査や航路誘導に見える措置でも、商業的には保険料、待機時間、傭船料、買い手の調達先変更を一斉に押し上げます。
一時回復した供給の脆弱な土台
6月中旬の覚書後、市場にはいったん回復期待が広がりました。EIAは7月7日の短期エネルギー見通しで、ホルムズ海峡の通航増加を受け、世界の原油生産と貿易フローが年末までに紛争前水準へ近づき、停止していた生産の多くが2027年第1四半期までに戻るとの見通しを示しました。同時に、米国のレギュラーガソリン小売価格は2026年後半に平均3.60ドル程度へ下がると見込んでいました。
しかし、その前提は「通航が増えること」と「敵対行為が再拡大しないこと」に強く依存していました。IEAの7月石油市場報告は、6月の世界石油供給が前月比410万バレル増の日量9880万バレルへ回復した一方、なお紛争前水準を日量940万バレル下回っていたと指摘しています。湾岸輸出は6月に日量650万バレル増の1610万バレルまで戻りましたが、開戦前平均の2400万バレルには届いていません。
在庫の読み方にも注意が必要です。IEAによれば、6月の世界観測在庫は4カ月ぶりに増加し、海上在庫の増加が陸上在庫の取り崩しを上回りました。一方で、OECD在庫はさらに6200万バレル減り、そのうち推定4400万バレルが政府備蓄の放出でした。表面上は原油が市場へ流れ込んでも、地上タンクと国家備蓄が薄くなれば、次の衝撃に耐える余力は小さくなります。
OPECプラスの対応も、急場の不安をすべて吸収するものではありません。OPECは7月5日、サウジアラビア、ロシア、イラク、クウェートなど7カ国が8月に日量18万8000バレルの生産調整を実施すると発表しました。これは市場安定へのシグナルですが、ホルムズ経由の輸出が数百万バレル単位で揺れる局面では、価格の方向を決める主因にはなりにくい規模です。産油国の柔軟性は重要ですが、海上交通の安全そのものを代替することはできません。
原油高が物価と株式に届く経路
米ガソリン4ドル台の政治的圧力
原油高が最初に家計へ届く経路はガソリンです。Business InsiderはAAAのデータとして、7月20日の米レギュラーガソリン平均が1ガロン4.003ドル、前週比で約13セント上昇したと伝えました。5月のピーク4.56ドルからは低いものの、6月の停戦期待で下がった価格が再び戻った形です。
米国ではガソリン価格が政治心理に直結します。物流費は食品、日用品、建材、航空運賃に遅れて波及し、実質所得を押し下げます。とくに中間選挙を控える局面では、燃料価格の上昇は外交政策への評価にも跳ね返ります。軍事的にはイランへの圧力を強めるほど抑止効果を期待できますが、市場面ではその圧力自体が供給不安を増幅させるというねじれがあります。
このねじれは、米国が世界最大級の産油国であっても消えません。原油は国際市場で価格が形成され、米国内の製油所も国際的な需給と製品価格に影響されます。イラン産原油の制裁、ホルムズ航行の保険料、湾岸製油所の稼働制約、ロシア製油所への攻撃が同時に起きれば、米国の増産だけではガソリンやディーゼルの上昇を抑えきれません。
精製品不足と欧州ガス高の波及
今回の相場で見落としやすいのは、原油そのものより精製品市場のひっ迫です。IEAは、6月に原油供給が戻ったにもかかわらず、中東の輸出製油所の再稼働が遅れ、ロシアの処理能力も攻撃で制約され、世界の製油所稼働は前年を大きく下回ったと分析しています。原油が海上に出ても、ガソリン、軽油、ジェット燃料、LPGとして需要地に届かなければ、消費者物価への圧力は残ります。
欧州では天然ガス価格にも波及しています。Guardianのビジネスライブは7月20日、オランダの天然ガス指標が一時1メガワット時60ユーロを超え、4カ月ぶり高値に近づいたと伝えました。背景には、米国の空爆拡大とイランのバーレーン、クウェートへの攻撃に加え、カタール産LNG輸出の回復遅れへの懸念があります。カタールはホルムズ海峡の内側に位置するため、原油だけでなくLNG市場も同じ海上リスクを抱えます。
株式市場への影響は、エネルギー株の上昇と広範なコスト上昇の綱引きです。短期的には石油メジャーや上流開発企業に買いが入りやすい一方、航空、物流、化学、消費財、小売には燃料費と輸送費がのしかかります。金利面では、原油高がインフレ期待を押し上げれば、中央銀行は利下げに慎重になります。株式市場が最初に冷静に見えるほど、企業業績と金利見通しの修正が遅れて出るリスクがあります。
日本にとっても、これは対岸の火事ではありません。中東原油への依存度が高い日本では、ホルムズ海峡の不安定化は輸入価格、円相場、電力料金、企業の調達コストへ連鎖します。ASEAN外相会議をめぐるAP報道では、東南アジア各国がホルムズ海峡の全面再開を求める見通しで、フィリピンは3月に燃料や食料の確保に向けた国家エネルギー緊急事態を宣言したとされています。アジア全体で、エネルギー安全保障が再び経済政策の中心へ戻っています。
停戦交渉と代替ルートを巡る市場リスク
相場を下げる最短の材料は停戦です。Guardianは7月20日、仲介者がイラン側に10日間の停戦案を提示し、6月の覚書を復活させる余地を探っていると報じました。APも、イラン内相がイスラマバードを訪問し、パキスタン側との協議に入ったと伝えています。パキスタンやカタール、オマーンのような仲介国は、米国とイランの直接対話が政治的に難しい局面で、危機管理の細い回路を維持する役割を担っています。
ただし、停戦案は価格を一時的に押し下げても、信認回復には時間がかかります。海峡では米国が封鎖を再開し、イランは航行管理の権限を主張しています。Guardianの7月13日報道によれば、トランプ大統領はホルムズ海峡の通航に20%の課金案を示し、米国が海峡管理を担う構想にも触れました。これに対し、米国務長官は国際水路で通行料を課すことは認められないとの立場を示していました。軍事衝突だけでなく、海峡の法的管理をめぐる対立が残っている点が、通常の停戦より厄介です。
代替ルートの整備は中長期の焦点です。Axiosは、湾岸産油国や企業がホルムズ依存を下げるため、パイプラインや新港湾整備を急いでいると報じました。Goldman Sachsの試算として、建設中・計画中のルートが実現すれば、2027年末までに紛争前のペルシャ湾輸出の45%超、2028年末までに60%超をホルムズ外へ逃がせる可能性があると紹介しています。一方で、それでも日量700万から900万バレルの原油・石油製品は海峡リスクにさらされるとされます。
APは7月17日、米企業がイラク政府と約600億ドルの協定を結び、ペルシャ湾外への輸出ルート構築を進めると報じました。イラク南部バスラからハディーサを経て、トルコのジェイハン港やシリアのバニヤス港へつなぐ構想では、日量約200万バレルの輸送能力が見込まれています。これは重要な一歩ですが、建設期間、通過国の安定、民兵組織の影響、シリア内戦後のインフラ復旧という難題があります。地図上の迂回路は、政治的な安全回廊と同義ではありません。
紅海側のリスクも無視できません。APは、イエメンのフーシ派がサウジアラビア向け海上交通への禁輸を宣言したと伝えました。ホルムズが詰まると、サウジアラビアは紅海側へのパイプラインを使って輸出を逃がします。ところが、その出口である紅海とアデン湾の安全が揺らげば、迂回そのものが脆弱になります。ペルシャ湾、紅海、東地中海を結ぶ複数の回廊が同時に不安定化することが、今回の市場リスクの核心です。
投資家が今週確認すべき三つの指標
今週の相場を読むうえで、第一に確認すべきはホルムズ海峡の実際の通航量です。価格ニュースだけでなく、タンカーの通過隻数、迂回命令、船舶保険料、湾岸輸出の積み出し状況を合わせて見る必要があります。6月のように海上在庫が一時的に膨らんでも、陸上在庫と政府備蓄が減っていれば、回復は見かけより薄い可能性があります。
第二は米国ガソリン価格です。4ドル台が短期で終わるのか、5月の4.56ドルに再接近するのかで、米消費と金融政策への圧力は大きく変わります。ガソリンは有権者の生活実感に近く、外交的強硬姿勢を維持する政治コストを測る指標にもなります。価格が上がるほど、軍事的勝利より出口戦略への要求が強まりやすくなります。
第三は停戦協議の制度設計です。単なる10日間の停戦では、海峡の航行規則、イラン港湾への封鎖、米軍の臨検、湾岸諸国への攻撃停止、フーシ派の紅海行動まで止められるとは限りません。原油90ドル突破は、市場が「戦争は続くが管理可能」と見ていた前提への警告です。投資家は、価格水準よりも、通航、精製、在庫、外交の四つが同時に改善しているかを確認する局面です。
参考資料:
- Global oil prices dip below $87 a barrel after new Iran ceasefire proposal - MarketWatch
- Gas Prices Hit $4 Again After Oil’s Latest Surge - Business Insider
- US bombing of Iran expands as Tehran lashes out - AP News
- US reimposes its blockade on Iran after Tehran’s attacks on ships in the Strait of Hormuz - AP News
- Southeast Asian ministers set to call for opening of Strait of Hormuz - AP News
- US oil firms sign deals with Iraq to develop alternative shipping routes - AP News
- Iran’s president says country is in full-scale war after expansion of US attacks - The Guardian
- Gilt yields edge higher as Andy Burnham promises to meet fiscal rules - The Guardian
- How oil producers are bypassing the Strait of Hormuz - Axios
- EIA increases global oil production forecast after the opening of the Strait of Hormuz - EIA
- Petroleum markets responded to disruptions in the Middle East in the second quarter - EIA
- The Strait of Hormuz is the world’s most important oil transit chokepoint - EIA
- Oil Market Report - July 2026 - IEA
- Saudi Arabia, Russia, Iraq, Kuwait, Kazakhstan, Algeria, and Oman adjust production - OPEC
南アジア・中東情勢
南アジア・中東を中心に、宗教・民族・歴史の深層から国際情勢を分析。長年の現地経験に基づく多層的な視座が持ち味。
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