米国予測市場インサイダー取引、摘発強化でも残る規制空白の深層
予測市場が金融規制の焦点に浮上した背景
米国の予測市場は、選挙、経済指標、スポーツ、企業イベント、地政学リスクなどの結果に連動する「イベント契約」を売買する市場です。契約価格は、将来の出来事が起きる確率を市場参加者がどう見ているかを映すため、情報集約の仕組みとして注目されてきました。
しかし、価格が「確率」を示すほど、非公開情報を持つ人物が参加した場合の問題は大きくなります。軍事作戦、企業発表、動画公開、選挙活動のように、少数の当事者が結果を知っている、または左右できるイベントでは、金融市場でいうインサイダー取引や市場操作のリスクがそのまま持ち込まれます。
CFTCの連邦官報資料によれば、指定契約市場が新規上場したイベント契約は2006〜2020年に年平均約5件でしたが、2021年に131件へ増え、2025年には約1,600件に達しました。市場の拡大速度に対して、監視、法執行、州との管轄整理はまだ追いついていません。本稿では、摘発が始まった不正事例と、なお多くの案件が刑事・民事訴追に進みにくい構造を整理します。
社内監視が先行するインサイダー摘発
Kalshiが処分した政治家と編集者の取引
CFTCは2026年2月、KalshiEX上のイベント契約をめぐる2つの社内処分事例を公表し、予測市場にも商品取引法上の不正防止規制が及ぶとの立場を明確にしました。1件目は、2025年5月に政治家候補が自らの候補者としての地位に関係する市場で取引したとされる事例です。Kalshiは246.36ドルの利益返還と2,000ドルの罰金を含む計2,246.36ドルの金融制裁、さらに5年間の取引停止を科しました。
2件目は、2025年8〜9月にYouTubeチャンネル関連の市場で、動画内容を事前に知り得る編集者が高い的中率の取引を行ったとされる事例です。Kalshiは5,397.58ドルの利益返還と15,000ドルの罰金を含む計20,397.58ドルの制裁、2年間の取引停止を科しました。CFTCは、この行為が非公開情報の不正利用にあたる可能性を示しつつ、これらはKalshiの内部執行プログラムで処理されたと説明しています。
ここに、予測市場の現実的な境界線があります。疑わしい取引を最初に見つけるのは、しばしば連邦当局ではなく取引所自身です。Kalshiは政治家、議員、高官、裁判官、高位軍人などをPEPとしてスクリーニングし、一部の市場へのアクセスを制限すると説明しています。これは金融機関のKYCに近い発想ですが、候補者、編集者、スポーツ関係者、政府職員まで対象が広がる点で、通常の証券市場より複雑です。
Polymarketで刑事事件化した重大事例
一方、重大な案件では司法省とCFTCが動き始めています。2026年4月、米司法省は米陸軍兵士Gannon Ken Van Dyke氏を、機密情報を使ってPolymarketで利益を得た疑いで起訴したと発表しました。司法省によれば、同氏はニコラス・マドゥロ氏拘束作戦に関する非公開の機密情報を持ちながら、ベネズエラ関連の複数市場で約33,034ドルを投じ、約409,881ドルの利益を得た疑いがあります。
CFTCも同日に民事執行を発表し、これは同委員会がイベント契約に関してインサイダー取引を問う初の事例であり、政府情報の不正利用を禁じる、いわゆる「Eddie Murphy Rule」を使った初のケースだと位置づけました。軍事作戦のような国家安全保障情報が予測市場に流れ込めば、単なる投資家保護ではなく、機密管理と安全保障の問題になります。
2026年5月には、GoogleのソフトウェアエンジニアだったMichele Spagnuolo氏が、Googleの「Year in Search」関連の非公開情報を使い、Polymarketで約120万ドルの利益を得た疑いで刑事訴追されました。CFTCによれば、同氏は少なくとも23件の関連契約で「Yes」または「No」ポジションを取り、ほぼ完全な精度で利益を上げたとされています。
Polymarketは自社の市場監視ページで、オンチェーンの透明性、リアルタイム監視、法執行機関への照会を強調し、90件超のアカウントを当局に照会したと説明しています。ただし、企業が「不審」と判断することと、検察が犯罪として立証することは別です。非公開情報の出所、守秘義務、本人の故意、取引利益、隠蔽行為まで示せる案件だけが、刑事事件化しやすいのです。
CFTCの権限拡大と執行能力のねじれ
イベント契約をデリバティブ化する法理
予測市場の法的位置づけは、米国では賭博規制だけでなく、デリバティブ規制の問題です。CFTCは2022年、Polymarket運営会社Blockratizeに対し、未登録のイベント型バイナリーオプション市場を提供したとして140万ドルの制裁金を科しました。その命令では、Polymarketが900件超のイベント市場を提供していたこと、こうした契約がCFTC管轄のスワップにあたることが示されました。
CFTC登録の指定契約市場であれば、取引所には契約条件の執行、監視、監査証跡の維持、市場操作防止の義務があります。連邦官報で示された2026年の予測市場ANPRも、イベント契約がスワップまたは先物契約として扱われ得ること、一般投資家向けに提供する市場はCFTC登録が必要になることを確認しています。
ただし、CFTCの権限は無制限ではありません。2024年のKalshiEX対CFTC訴訟で、ワシントンD.C.連邦地裁は、議会選挙の支配政党に関するKalshiの契約について、CFTCが「違法行為」や「ゲーミング」を理由に禁止した判断を退けました。裁判所は、選挙に関する契約が政策的に望ましいかどうかではなく、議会がCFTCにどこまで禁止権限を与えたかを問題にしました。
この判決以降、CFTCは2024年のイベント契約規則案を撤回し、2026年に新たな規則作りへ進みました。つまり、インサイダー取引を処罰する権限はある一方、どの市場を事前に禁止できるか、政治・スポーツ・戦争関連市場をどの範囲で認めるかは、なお流動的です。
人員と予算が追いつかない監視現場
市場拡大に対して、CFTCの執行能力には明確な制約があります。CFTCの2027年度予算要求は410百万ドル、650人のFTEを求める内容で、2026年度比で45百万ドル、12.3%の増加です。ところが、執行部門だけを見ると、2025年度実績は140人、2026年度成立予算では105人、2027年度要求でも108人にとどまります。
金額面でも、執行部門予算は2025年度の約63.99百万ドルから2026年度に約46.84百万ドルへ下がり、2027年度要求は約52.76百万ドルです。予測市場、暗号資産、AI化した高速取引、従来の商品デリバティブを同時に見るには、人的リソースは厚いとは言えません。
そのため、すべての疑わしい取引が連邦事件になるわけではありません。取引所の口座凍結、利益返還、罰金、一定期間の停止、永久追放で終わる案件も多くなります。法執行機関は、悪質性が高く、証拠が明確で、社会的影響が大きい案件を優先せざるを得ません。市場参加者から見れば、これは「規制がない」というより、「規制の実効性がプラットフォーム監視に大きく依存する」状態です。
CFTC自身もANPRで、非対称情報を持つ参加者の取引が価格発見に役立つ可能性と、不公平や情報不正利用につながる可能性の両方を問いかけています。特に、少数の個人や組織が結果を左右できるイベントでは、情報優位と操作能力の境目が曖昧です。予測市場の価格が金融市場のシグナルとして使われるほど、この曖昧さは市場全体の信頼問題になります。
州規制との衝突が生む市場再編圧力
予測市場をめぐるもう一つの摩擦は、連邦デリバティブ規制と州賭博規制の衝突です。CFTCは2026年4月、ウィスコンシン州がKalshi、Polymarket、Crypto.com、Robinhood、Coinbaseを州法違反として訴えたことに対抗し、イベント契約はCFTCが排他的に管轄するデリバティブだと主張して同州を提訴しました。CFTCはニューヨーク、アリゾナ、コネチカット、イリノイなどでも州側の介入に対抗していると説明しています。
この対立は、単なる役所同士の縄張り争いではありません。連邦管轄が広く認められれば、予測市場企業は全米規模で金融取引プラットフォームとして拡大しやすくなります。一方、州賭博規制が強まれば、スポーツベッティングと同様に州ごとの免許、広告規制、年齢確認、責任あるゲーミング対応が重くなります。
金融市場として育つか、賭博市場として制約されるかで、事業モデルは大きく変わります。KalshiやPolymarketが市場監視、本人確認、政治関係者やスポーツ関係者の遮断を前面に出すのは、単なるコンプライアンス対応ではありません。公正な市場として認められること自体が、競争力と規制上の防波堤になるからです。
ただし、監視技術を強化しても、完全な遮断は困難です。家族名義、法人、暗号資産ウォレット、海外アクセス、友人への情報伝達など、迂回手段は多くあります。規制強化は大手の優位を高める一方、小規模な新規参入者には重い固定費となり、業界再編を促す可能性があります。
個人投資家が確認すべき市場監視の論点
個人投資家にとって、予測市場の価格は便利な確率表示であっても、安全な投資指標ではありません。まず確認すべきは、取引所がCFTC登録市場か、契約の解決基準が明確か、判定に使う公式情報源が何かです。出来高が薄い市場では、少額でも価格が大きく動き、内部情報や組織的取引の影響を受けやすくなります。
次に、自分自身の立場を点検する必要があります。勤務先、取引先、政府機関、スポーツチーム、メディア制作、政治活動などを通じて非公開情報を知った場合、その情報を使う取引は利益額が小さくても処分対象になり得ます。結果に影響を与えられる立場なら、さらにリスクは高まります。
予測市場は、金融市場と世論、市場価格とニュース、投資と賭けの境界にある新しい市場です。投資家は、価格の面白さだけでなく、誰が何を知り、誰が結果を左右できるのかを読む必要があります。今後の焦点は、CFTCの新規則、州との訴訟、そしてプラットフォームが社内処分をどこまで透明化できるかです。
参考資料:
- CFTC Enforcement Division Issues Prediction Markets Advisory
- CFTC Charges U.S. Service Member with Insider Trading in Nicolás Maduro-Related Event Contracts
- U.S. Soldier Charged With Using Classified Information To Profit From Prediction Market Bets
- CFTC Charges Google Employee with Insider Trading in Search Result-Related Event Contracts
- Google Employee Charged With Insider Trading
- Prediction Markets, Federal Register 91 FR 12516
- FY 2027 President’s Budget, CFTC
- CFTC Orders Event-Based Binary Options Markets Operator to Pay $1.4 Million Penalty
- CFTC Sues Wisconsin to Reaffirm its Exclusive Jurisdiction Over Prediction Markets
- CFTC Withdraws Event Contracts Rule Proposal and Staff Sports Event Contracts Advisory
- KALSHIEX LLC v. COMMODITY FUTURES TRADING COMMISSION
- Polymarket Policy — Market Integrity
- Who’s banned from trading on Kalshi
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