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医師と保険会社がかみ合わない米医療の分断構造と改革の難所整理

by 三浦 愛子
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はじめに

米国医療をめぐって、医師と保険会社の主張がかみ合わない場面は珍しくありません。医師側は「必要な治療が保険審査で遅れる」と訴え、保険会社側は「無駄な医療や高額医療を抑える仕組みが必要だ」と反論します。表面だけ見ると価値観の対立ですが、実際には、同じ制度に異なる役割を背負わせている構造問題です。

この対立が2026年に重く見える理由は、事前承認の不満だけではありません。2025年7月4日には、One Big Beautiful Bill Act が成立し、MedicaidやACA市場の加入条件が厳しくなる方向が強まりました。つまり、現場の審査負担と、制度全体の給付圧縮圧力が同時進行しています。本記事では、医師と保険会社がなぜすれ違うのか、その背景にある制度論理と今後の改革の難しさを整理します。

医師と保険会社が衝突する制度設計

事前承認をめぐる体験の差

医師と患者の不満が最も集中しているのは、事前承認です。KFFが2026年2月に公表した調査では、加入者の69%が事前承認を負担だと感じ、34%は「費用以外で最大の負担」と答えています。慢性疾患を抱える加入者では39%が最大の負担だと答えており、継続治療が必要なほど保険会社との接点が増え、摩擦も大きくなります。

医師側の認識はさらに厳しいです。AMAの2024年調査では、93%の医師が事前承認で必要な医療に遅れが生じると答え、82%は治療放棄につながることがあると回答しました。29%は患者に重大な有害事象が起きた経験があるとし、週あたりの事前承認件数は医師1人当たり39件、関連業務時間は13時間に達しています。現場から見れば、事前承認は単なる事務ではなく、診療の流れを壊すボトルネックです。

保険会社にとってはコスト管理の中核

ところが、保険会社の説明は別の方向を向きます。Aetnaは雇用主向け資料で、事前承認は「最も適切で費用対効果の高い治療」を確認する仕組みであり、不要または低価値な医療を避ける役割を持つと説明しています。たとえばMRIのように高額で適応判断が難しい検査では、臨床ガイドラインや給付条件に基づく事前確認が、保険者の責務だという立場です。

この論理には制度上の裏付けもあります。CMSによる医療損失率(MLR)規制では、個人・小規模市場の保険会社は保険料収入の少なくとも80%、大規模市場では85%を医療と医療の質改善に充てなければなりません。言い換えれば、保険会社は行政コストや利益を無制限に上積みできません。そのため、医療費そのものを抑える利用管理に依存しやすい構造があります。医師には介入に見える仕組みが、保険会社には価格統制の実務に見えるわけです。

分断を深める数字と政策環境

承認率が高くても不満が消えない理由

この対立を複雑にしているのは、事前承認が「大量に行われ、大半は通る」ことです。MedPACの2025年分析によれば、Medicare Advantageでは2023年に5,010万件の事前承認申請があり、初回判断の93.6%が全面承認でした。再審査でも80.6%が承認されています。数字だけ見れば、医療の大半は最終的に通っているように見えます。

それでも医師や患者の不満が強いのは、問題の本質が拒否率だけではないからです。承認までの待ち時間、書類の複雑さ、電話や再提出の手間、患者への説明コストが積み上がります。AMA調査でも、88%の医師が事前承認は医療資源の総利用をむしろ増やすと答え、73%は追加外来、47%は救急受診、33%は入院増につながると答えました。保険会社にとっては「多くを最終承認している」仕組みでも、現場には「通るまでに無駄が多すぎる」仕組みとして映ります。

改革は進むが、根本対立は残る構図

連邦政府も問題を放置してはいません。CMSは2024年の最終規則で、対象保険者に対し、2026年から否認理由の明示を求め、緊急案件は72時間以内、通常案件は7暦日以内に判断するよう義務付けました。さらに2027年からはPrior Authorization APIの実装も進みます。方向性としては、事前承認をなくすのではなく、電子化と透明化で摩擦を減らす政策です。

ただし、ここに限界もあります。医師側の不満は「処理が遅い」だけではなく、「診療判断を保険者が上書きする」こと自体にあります。AMAは2025年3月時点で、61%の医師がAIの利用で否認が増えることを懸念していると報告しました。つまり、電子化は事務負担を減らしても、審査権限の所在を変えるわけではありません。制度の速度は改善できても、権力関係の摩擦は残ります。

補償拡大の後退が対立をさらに重くする背景

OBBBA成立で増す加入維持のハードル

事前承認の議論が重くなる背景には、加入そのものをめぐる環境悪化があります。KFFは、2025年予算調整法として成立した法案が、医療分野で1兆ドル超の連邦支出削減をもたらし、無保険者を1,000万人増やすと整理しています。別のKFF分析では、House案ベースでMedicaid関連だけでも2034年に780万人の無保険増、Medicaid登録者は1,030万人減ると試算されています。

AMAも2026年4月更新の解説で、One Big Beautiful Bill Act of 2025 が2025年7月4日に成立し、Medicaidの就労要件を含む新たな事務要件や、ACA市場での事前確認強化を通じて、患者のアクセスを悪化させると警告しています。ここで重要なのは、保険会社だけが給付を絞るのではなく、法律そのものが加入維持を難しくしていることです。医師から見ると、保険審査の厳格化と加入要件の厳格化が重なり、患者アクセス全体が細っていくように見えます。

現場の怒りが保険会社に集中しやすい理由

それでも患者や医師の怒りは、まず保険会社に向かいます。理由は単純で、目の前の遅延や否認の通知を出すのが保険会社だからです。KFF調査でも、保険会社による遅延や否認を「大きな問題」と考える成人は約3分の2に達しました。制度改正の責任が議会や行政にあっても、体験として現れるのは「申請が通らない」「薬が出ない」「更新で落ちる」という保険会社との接点です。

この構図は、医師と保険会社の対話をさらに難しくします。保険会社は「法令順守と費用管理」を語り、医師は「患者の治療機会の喪失」を語るため、そもそもの評価軸が違うからです。現場の摩擦を減らすには、事前承認だけでなく、加入維持、給付設計、審査の説明責任まで一体で見直す必要があります。

注意点・展望

この問題を理解するうえで避けたいのは、「医師が正しく、保険会社が間違っている」またはその逆という単純化です。米国医療は価格が高く、保険会社にはコスト抑制の役割が現実にあります。一方で、利用管理の副作用が現場に過大な事務負担と治療遅延を生んでいることも、複数の調査が示しています。

今後の焦点は三つあります。第一に、CMSルールによる電子化と迅速化がどこまで実務負担を減らすか。第二に、AIを使った審査が透明性を高めるのか、逆に不信を深めるのか。第三に、OBBBA後の加入減少が安全網病院や地域医療にどこまで波及するかです。事前承認だけをいじっても、補償縮小が進めば現場の分断は収まりにくいでしょう。

まとめ

医師と保険会社の対立は、相手の善意不足ではなく、制度が別々の目的を同時に求めていることから生まれています。医師は目の前の患者に最適な治療を急ぎ、保険会社は限られた保険料で過剰医療と高コストを抑えようとします。事前承認は、その矛盾が最も露出しやすい接点です。

しかも2025年7月4日に成立した OBBBA により、加入維持と給付アクセスの条件はさらに厳しくなりました。だからこの分断は、単なる現場の不満ではなく、米国医療の負担配分をめぐる政治そのものです。改革の本丸は、審査の速度改善だけではなく、誰が医療費抑制の痛みを引き受けるのかを制度として明確にすることにあります。

参考資料:

三浦 愛子

米国経済・金融市場

米国経済の構造変化を、金融市場・財政政策・産業動向の三軸で分析。ウォール街と実体経済のギャップを見抜く。

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