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米実質賃金が再び失速、インフレ再燃で労働者家計の購買力に陰り

by 三浦 愛子
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実質賃金の失速が示す家計圧力

米国の労働者にとって、賃上げの数字だけを見れば景気はまだ崩れていないように見えます。7月の民間平均時給は前年比3.2%増、アトランタ連銀の賃金トラッカーも前年比3.8%と、名目賃金はなお増えています。しかし同じ月の消費者物価指数は前年比3.4%上昇し、BLSの実質平均時給は前年比0.2%減となりました。問題は賃金が止まったことではなく、物価が再び賃上げを上回り始めたことです。

この変化は、単なる統計上の揺れではありません。雇用の増勢が細り、転職による賃金上昇の余地が狭まり、エネルギーや住居費の負担が家計の可処分所得を削っています。コロナ後の高インフレ局面で起きた「名目賃金は増えるが生活は楽にならない」という現象が、形を変えて再燃しているのです。

物価上昇が賃上げを再び上回る構図

7月CPIと平均時給のずれ

米労働省が公表した7月のCPIは、前月比0.1%上昇、前年比3.4%上昇でした。6月の3.5%から小幅に鈍化したとはいえ、FRBの物価目標である2%をなお大きく上回っています。食品は前年比3.0%、エネルギーは14.7%上昇し、ガソリン価格や公共料金の動きが家計の体感インフレを押し上げています。

同じBLSの雇用統計では、7月の平均時給は37.62ドルで前月比2セント増にとどまり、前年比では3.2%増でした。つまり、平均的な賃金の伸びはCPIの伸びに届いていません。BLSの実質所得統計では、全従業員の実質平均時給は6月から7月に0.1%減り、2025年7月から2026年7月にかけても0.2%減少しました。

この「0.2%減」は小さく見えますが、家計にとって重要なのは方向です。2023年から2024年前半にかけて、インフレ鈍化によって実質賃金は一部で回復しました。ところが2026年は、エネルギー価格の再上昇と賃金伸び率の鈍化が重なり、購買力の回復が再び止まっています。

固定された職種構成で見るECIの警告

平均時給には、雇用がどの業種に増えたかという構成変化の影響が入ります。その点で重要なのが雇用コスト指数です。ECIは労働の構成を固定して賃金や福利厚生のコスト変化を見るため、賃金インフレの基調を測るうえで金融市場が重視します。

6月までの12カ月で、民間部門の賃金・給与は名目で3.1%増でした。一方、インフレ調整後では0.4%減となっています。全従業員の平均時給だけでなく、より構造的な賃金指標でも実質ベースの弱さが確認される点が、今回の局面の特徴です。

一方で、BLSの通常週給統計では第2四半期のフルタイム賃金労働者の中央値は週1,251ドルで、前年比4.6%増でした。同期間のCPI上昇率3.9%を上回っています。これは「すべての賃金指標が悪い」という話ではありません。むしろ、時給、週給、職種固定指数、転職者賃金で見え方が分かれるほど、労働市場の回復が均質ではなくなっていることを示しています。

雇用鈍化と転職市場の冷え込み

求人と離職率が映す交渉力の低下

賃金が物価に追いつかない背景には、労働者の交渉力の弱まりがあります。7月の非農業部門雇用者数は2.3万人減となり、失業率は4.1%で大きくは動きませんでした。ヘルスケアは増加を続けた一方、地方政府教育や小売では雇用が減りました。5月と6月の雇用者数も合計で10.3万人下方修正され、労働需要の勢いは明らかに落ちています。

6月のJOLTSでは求人件数が740万件、採用件数が530万件、離職件数が540万件でした。自発的離職は320万件、離職率は2.0%で横ばいです。自発的離職は、労働者がより良い条件を求めて動けるかを示す指標です。これが伸びない局面では、企業は大幅な賃上げで人材を奪い合う必要が薄れます。

アトランタ連銀の賃金トラッカーでは、7月の中央値賃金上昇率は3.8%でした。転職者は4.4%、同じ職にとどまる人は3.6%です。転職者の上昇率が高い構図は残っていますが、2021年から2022年のような急激な転職プレミアムではありません。労働者が賃金を守る手段として転職を選びにくくなっていることが、実質所得の伸び悩みにつながっています。

低賃金層の追い上げ鈍化

コロナ後の回復期には、レジャー、飲食、小売などの低賃金職種で賃金の伸びが強まりました。人手不足が深刻だったため、企業は時給を上げざるを得なかったからです。この動きは所得格差の縮小にも一部寄与しました。

しかしFRBの2026年7月の金融政策報告は、2024年半ば以降、低所得層や高卒以下の労働者の実質賃金の勢いが鈍ったと指摘しています。労働市場が緩み、物価が再び上がると、最も恩恵を受けていた層から先に実質賃金の伸びが失われやすいのです。

ニューヨーク連銀の賃金インフレ分析も、持続的な名目賃金上昇率が2021年末のピークから低下し、2017〜2019年に近い水準で横ばいになりつつあるとしています。これはインフレ圧力の観点では安心材料です。しかし家計の購買力という観点では、物価が3%台で残る限り、賃金の正常化は実質所得の停滞を意味します。

エネルギーと生活必需費が家計を圧迫する経路

ガソリン価格が体感インフレを増幅

7月のCPIではエネルギー指数が前月比1.5%低下し、 headline inflation の鈍化に寄与しました。しかし前年比では14.7%上昇しており、家計の負担感は依然として強いままです。EIAの8月の短期エネルギー見通しでは、2026年の米ガソリン小売価格は1ガロン3.78ドルと予想されています。2025年の3.10ドルから大きく上がる計算です。

エネルギー価格は、単にガソリン代だけの問題ではありません。輸送費、航空運賃、食品配送、公共料金を通じて広い範囲の価格に波及します。FRBのベージュブックでも、複数地区が燃料費の高さによる消費抑制、価格敏感度の上昇、企業マージンの圧迫を報告しています。

こうした価格上昇は、賃金の低い家計ほど重く響きます。食料、家賃、ガソリン、医療といった支出は削りにくく、所得に占める割合も高いからです。名目賃金が3%増えても、通勤燃料費や家賃が同じかそれ以上に増えれば、自由に使えるお金は増えません。

消費と債務に表れる余裕の縮小

BEAの6月個人所得統計では、個人所得は前月比0.2%増、可処分所得も0.2%増でした。一方、個人消費支出は0.3%増で、消費の伸びが所得の伸びを上回っています。貯蓄率は2.7%にとどまり、家計のクッションは厚いとはいえません。

ニューヨーク連銀の家計債務統計では、2026年第2四半期の家計債務残高は18.8兆ドルでした。全体では前期比130億ドル減でしたが、延滞状態にある債務の比率は4.7%と、なお注意を要する水準です。物価上昇が賃金を上回る状態が続けば、消費を維持するために貯蓄を取り崩すか、クレジットに頼る家計が増えやすくなります。

この点は金融市場にも重要です。米国GDPの大きな部分は個人消費が支えています。実質賃金が伸びないまま雇用も鈍れば、名目売上は維持されても販売数量は落ち、企業収益の質が悪化します。インフレで売上高が膨らむ局面と、実質需要が伸びる局面は分けて見る必要があります。

FRB判断を難しくする賃金と物価のねじれ

7月の統計は、FRBにとって単純な利上げ材料でも利下げ材料でもありません。賃金インフレは強すぎず、平均時給もECIも落ち着いています。カンファレンスボードも8月7日の雇用分析で、平均時給はパンデミック前のペースに近づき、意味のある賃金インフレ圧力は見えにくいと指摘しました。

一方で、CPIは3.4%、PCE価格指数も6月時点で前年比3.7%です。FRBの7月金融政策報告は、PCE価格の伸びが賃金上昇を上回り、労働者の購買力が全体としてやや低下したと整理しています。つまり、賃金がインフレを押し上げているというより、供給要因やエネルギー、関税、地政学リスクが家計の実質所得を削っている構図です。

この場合、追加利上げは需要を冷やして物価を抑える効果を持ちますが、同時に雇用と賃金交渉力をさらに弱める可能性があります。逆に利下げを急げば、エネルギーやサービス価格の粘着性が残る中でインフレ期待を刺激しかねません。FRBは、賃金と物価のどちらが主因かを見誤ると、家計と市場の双方に余計な痛みを与える局面に入っています。

投資家にとっては、平均時給の前年比だけでなく、実質平均時給、ECIの実質賃金、JOLTSの離職率、ガソリン価格、個人消費と貯蓄率を組み合わせて見る必要があります。企業決算では売上高の伸びよりも、販売数量、値上げ耐性、低所得層向け事業の延滞や客数変化が焦点になります。

読者が注視すべき実質所得の先行指標

今回の米国賃金の問題は、「賃金が上がっていない」ことではなく、「賃金上昇の質が物価に負け始めた」ことにあります。平均時給は増え、転職者の賃金も上がっています。それでもCPI、PCE、エネルギー価格を差し引くと、労働者の購買力は伸びにくくなっています。

次に注視すべきは、9月4日の8月雇用統計、9月11日の8月CPIと実質所得統計です。平均時給が3%台前半にとどまり、CPIが3%台半ばで粘るなら、家計の実質所得停滞は一時的とは言いにくくなります。FRBの政策判断だけでなく、米国株の消費関連セクター、クレジット市場、ドル金利の方向性を読むうえでも、実質賃金は最重要指標の一つです。

参考資料:

三浦 愛子

米国経済・金融市場

米国経済の構造変化を、金融市場・財政政策・産業動向の三軸で分析。ウォール街と実体経済のギャップを見抜く。

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